日本競泳界に数々の伝説を残し、4月の日本選手権を最後に現役引退した北島康介氏(33)が23日、東京都内のホテルで「感謝の集い」を開いた。男子平泳ぎで五輪2大会連続2冠を達成する一方で、水泳界初のプロ選手となり、自らの会社も立ち上げた。従来の日本人アスリート像を打ち破ってきた北島氏が、引退後初めて自らの水泳人生について語った。日刊スポーツでは5回にわたり、その言葉を独占連載する。

 僕が現役時代に大切にしていたものの1つに、闘争心がある。五輪の決勝で金メダルを目の前にすれば、想像を絶するような重圧に襲われる。だけど僕は違った。04年のアテネ五輪は、ブレンダン・ハンセン(米国)との一騎打ちの状況だった。重圧より何より言葉は悪いが、ライバルを「ぶっ殺す」くらいの気迫だけでコース台に立った。

 水泳は対人競技ではない。でも自分の場合は、子供の頃からタイムを伸ばすことより、ライバルとの対決に魅力を感じてきた。その方が心が燃えた。人間は相手やライバルがいるほど、力は出やすい。競争力があるからこそ、互いの力が引き上げられ、高いレベルの戦いにつながる。そんな意味では現役時代、自分はライバルに恵まれていた。

 アテネ五輪では「金メダル=打倒ハンセン」の図式があった。自分にとってはターゲットが絞れてやりやすかった。ハンセンとは01年から世界のトップを争うライバル関係が続いた。本番直前には、前年に出した100メートルと200メートルの世界記録を更新された。実力伯仲の激しい争いだっただけに、ハンセンとの戦いはレースだけではなかった。

 練習場のプールにハンセンがいれば、にらむのではないがずっと彼を見ていた。レース直前の招集所でも、どんな動きをするのかなと、ずっと見た。すると彼は目を合わせてこない。それどころか、動揺なのか、ぎこちない変な動きをし始める。五輪はテレビカメラも入って全世界に映像が流れるから、自分に集中するフリをしながらも、ずっとハンセンを見ていた。

 人生初の金メダルとなった100メートル決勝、入場してコース台の後ろの椅子に座った。スタート前にはコース台を拭くけど、ハンセンを見たら台の左下を拭いていた。その左からコース台に上がると思っていたら、水を拭いていない逆の右から上がった。招集所から思っていたけど、こいつは緊張しているなと。昔から人を見るのが好きだった、特に面白い人は。観察眼かどうかは分からないけど、レース前に精神面で優位に立ったことは間違いなかった。

 ハンセンとはアテネ五輪後もライバル関係は続いたけど、会話をしたことは1度もない。仲の良い外国人選手には「Hi」「What’s up(最近どう)?」などと気さくに声を掛けるが、彼とは一切話さなかった。無言の威圧。金メダルの戦いは水中だけではなかった。

 金メダルを取ってから、国内のレースでは興奮できなくなった。日本の選手相手に「ぶっ殺す」くらいの気持ちは持てない。長らくハンセンのような相手に勝負を仕掛けていないと、勝負勘みたいなものが鈍る。そこが弱くなったといえば、弱くなっていたのかもしれない。

 現役時代の原動力だった闘争心。小学校の運動会などで順位を付けないこともあるらしいが、やはり勝ち負けを争う、闘争心は人間の本能でもある。子供の頃から、勝った、負けたを経験していくことは、スポーツだけでなく、今後の人生にも役立つと感じている。【取材・構成=田口潤】

 ◆北島康介(きたじま・こうすけ)1982年(昭57)9月22日、東京都荒川区生まれ。東京・本郷高-日体大。5歳から東京SCで水泳を始め、平泳ぎの選手として中学2年から平井伯昌コーチに指導を受ける。00年シドニーから12年ロンドンまで五輪に4大会連続で出場。アテネ、北京と2大会連続で100メートル、200メートルの2冠に輝くなど、五輪で金4個、銀1個、銅2個のメダルを獲得。世界選手権では金3個、銀4個、銅5個を手にした(いずれもメドレーリレーを含む)。自己記録は100メートル58秒90、200メートル2分7秒51。178センチ、73キロ。