岡野雅行はなぜ鳥取へ行ったのか……浦和降格でもサポーターを裏切らなかった男の哲学

有名サッカー関係者にさまざまなエピソードを伺うこのインタビューシリーズ。今回は岡野雅行さんに登場をしていただきました。ジョホールバルの歓喜と呼ばれるイランとのW杯杯アジア第3代表決定戦で決勝ゴールをあげた華々しい活躍をご記憶の方も多いと思います。浦和レッズ時代や現在、代表取締役GMを務めるガイナーレ鳥取の話題など、さまざまなエピソードを語っていただいております。 (鳥取市のグルメランチ

岡野雅行はなぜ鳥取へ行ったのか……浦和降格でもサポーターを裏切らなかった男の哲学

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いつも陽気で朗らかな岡野雅行は

明るく自分が苦しかった時期を振り返ってくれた。

自分のことを否定してきた言葉は忘れていないという。

 

誹謗をどうやって乗り切ったのか

それは岡野らしい明るい発想だった。

考え方を少し変えるだけで人生は変わる。

 

鳥取で最初は誤解されていたという。

その場所に現役を終えた後

留まろうと思ったのはなぜだったのか。

 

ガイナーレを売り込むために

日々各地を飛び回っているそうだ。

現役のような日焼けがその活躍ぶりを物語っていた。

 

 

人生とは辛いときをどうクリアしていくかという作業

人生って辛いことが多いと思ってるんですよ。いいときってあんまりなくて。そして人生って、その辛いときをどうやってクリアしていくかという作業だと思うんです。だから僕はあまり何かを「辛い」とは思いたくなくて。楽に、全部前向きに思いたいなって。そして辛いときって「オレって鍛えられてるじゃないかな」と思いたくて。

 

たとえばトレーニング中とか試合中に足がつるじゃないですか。そんなとき「あ、オレ、強くなってるんだ」と思うのか、「あ、オレ体力がないから足つっちゃった」と思うのかには差があると思うんですよ。打撲なんかのケガにしても、僕は「これで強くなった」と捉えていたんで。「このケガした部分が筋肉になると、相当強くなるぞ」って。

 

高校もそうでした。生まれた横浜から島根の学校に「サッカー部があるから」って言われて行ったのに、本当はなかった。そこで「もうサッカーできない」と思わないで、「サッカー部作ればいいじゃん」と考えられた。そんな発想をしたらプラス思考にできたので、変わっていったというか。もしそこで「しょうがない」と思ってサッカーをやめてたら、もう今の自分はいないじゃないですか。

 

大学のサッカー部も、最初は選手じゃなくて洗濯係として入ったんです。途中からコーチがいらして実力の世界になって、そこからレギュラーになれたんですけど。それまで試合には出られなかったんですけど、とりあえず練習はしっかりやってましたし、絶対チャンスが来ると思ってやってました。もしそこで投げ出してたら終わってましたね。

 

たまたまJリーグから誘いが来て、浦和レッズに入れてもらって。あとはバババッて日本代表まで行って、1998年フランスワールドカップの予選が始まり、アジア第3代表決定戦のジョホールバルでのイラン戦になるわけです。

 

あのイラン戦も延長戦突入の大変なとき出されて、もしあれで逃げ出してたらそのあとはないし、もし負けてたら自分の責任だって心に大きな傷ができてたでしょうね。

 

 

「無理だよ」と言う人たちの考えをひっくり返したかった

僕はいろいろ言われ続けてきたんです。「サッカーなんてバカみたいだから、やめたほうがいいんじゃない?」とか、「プロなんて無理だからやめておけよ」とかと言ってくる人がたくさんいましたね。自分は何も行動しないのに。そういう人たちの考えをひっくり返したかったんですよ。捻くれてるのかもしれないですけど。

 

中学時代の友だちにはサッカー部のない高校に行ったってことで「お前はもう無理だよ」って言ってくるヤツいましたね。だけど僕はサッカー部を作って続けて、その友人はサッカーをやめてしまった。僕は大学に行ってサッカーして、その友人は大学でもサッカーをしなくて。

 

ただ、僕が洗濯係だったのを友人は知って「ほら見ろ」と。「無理なんだから、サッカー辞めて違うことやったほうがいいよ」って言ってきたんですけど、そこから僕は大学選抜に入ってJリーグに入ることができた。

 

友人だけじゃなくて、「お前みたいなのがいるから、サッカー界のレベルが低くなる」とまで言ってきた人もいたし。学校の先生からもいろいろ言われてましたから。「サッカーで飯食えないから早く辞めたほうがいいよ」って。

 

そんなことをずっと言われてきたので、「絶対この人たちを『ぎゃふん』と言わせてやろう」「よし! 続けていれば、いつかこの人たちを見返すことができるかもしれない!」という思いでやってました。だけど「恨み」じゃないですよ。

 

ピンチがチャンスというか。だって結構、いろいろ辛いことだらけですよね。それを「どうやって楽しんで乗り越えるか」と考えてきたのが、自分にとって一番プラスになったんじゃないかなって。「やらされてる」と感じるのか、「自分でクリアしていこう」と思うのかで差が付くと思うんです。

 

 

移籍を経験したことで考えが変わった

僕はプロ選手として499試合に出ているんですけど、その中で輝いてたときって10試合もあったらいいんじゃないでしょうか。90分の中でも自分が輝いてる時間が1分以上あれば大成功ですね。あとの時間は、ほぼイライラしてるんです。パスが出てこないとか、相手が邪魔してるとか、レフェリーの判定に不満があったりとか。

 

でも諦めずにプレーしてたら、ゴールできたり勝ったりできる。そうすると気持ちが解放されてわかるんですよ。やっぱり逃げ出しちゃいけなくて、「辛いときをどう乗り越えるのかという作業が一番楽しい」と思わないといけないって。

 

今のガイナーレ鳥取なんてまさにそうで、本当に大変なんですよ。でも、ここをどうやって乗り越えるかが大事で。いいときはみんな寄ってくるのはわかってるんです。だけどこの厳しいときに何ができるかというのが、実は一番楽しいのかなって。よくなったり褒められたりするようになると、つまらないなって。

 

2001年、浦和レッズからヴィッセル神戸に期限付移籍するんですけど、あのときのヴィッセルの経験がなかったら、レッズに戻ってからの優勝はなかったですね。ヴィッセルに行ったときは、正直に言うと、僕のモチベーションがなくなってたんですよ。ワールドカップに行って帰ってきて、目標は海外に行くことになってましたから。

 

中田英寿と2人で「海外に行こうぜ」って話をしてたんです。それでアイツはペルージャに行った。僕はアヤックスが声をかけてくれたり、ドイツから3チーム、ポルトガルのチームもチェックしてくれてた。海外って足が早い選手、好きですからね。日本では認められなくても、海外の監督からは「エクセレント」って。一発でゴールに向かえるほうが、パスを回して崩せるよりいいんだって。

 

だけど結局話がまとまらなかったんです。僕の中ではワールドカップに出ることイコール海外に行くことだったんですけど、それが叶わなかった。それでサッカーに対するテンションが落ちちゃって。

 

それが27歳で、28歳ぐらいには引退して他のことをやろうと思ってたんです。ちょうどそのときに、それまでずっとレッズだったんで、一度離れて別のチームに行ってみようかと思って初めて代理人を付けて。そうしたらヴィッセルが声をかけてくれたんですよ。

 

ヴィッセルに行ったら、これがまた全然ノリが違うわけです。当時のヴィッセルは今のガイナーレよりも環境が悪かった。グラウンドの芝が枯れてたり、仮設のクラブハウスだったり、J1でこんな状況で練習をやってるんだ、ぐらいの。胸スポンサーもついてなくて。

 

レッズでは負けるとサポーターが怒鳴ってたけれど、ヴィッセルでは勝っても負けても拍手。いかにも市民クラブという感じでしたね。そこにいろんな選手が、カズ(三浦知良)さんもいて、これからみんなで作っていこう、みんなで大きくしていこうよっていう感じもあって。

 

ヴィッセルのサポーターと一緒にご飯食べて、次の日にみんなと一緒に横断幕を作ったりしたんですけど、そういうことがすごく新鮮に感じられました。そして「ここだな、原点は」「こういうことだな」って思えたんです。それでサッカーがまたすごく楽しくなったんですよ。サッカーやっててよかったともう一度思えましたね。

 

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レッズに戻ったときは一番年上になっていた

ちょうどそのとき、2004年にレッズに戻ることになって、戻ってみると一番年上だったんですよ。それからみんながバラバラだったのがわかった。それでみんなをまとめようと食事に誘ったんです。そうしたらみんなが付いてきてくれた。そこからセカンドステージで優勝するんですよね。ヴィッセルに行って、環境は悪くなったけど諦めずにサッカーを続けていたからご褒美だったのかなって。

 

その後、2005年は天皇杯に優勝し、2006年はゼロックススーパーカップ、リーグ戦、天皇杯と3つタイトルを獲って、2007年はアジアチャンピオンズリーグで優勝してクラブワールドカップに出られましたからね。天皇杯はだいたいレギュラーで出ることができて、やっぱり一生懸命やっててよかったなって。

 

結局レッズは36歳で辞めましたけど、すごく幸せ者だったなって思います。2004年に帰ったときは自分のことも変えることができたんですよ。それまで自分はやっぱり目立ちたくて、「オレがオレが」ってタイプだったけど、あのとき一番年上になって、自分がここで何ができるかと考えたときに、いいチームになるためにみんなを盛り上げようって思うことができましたからね。

 

あのチームは個性が強かったんでね。都築龍太がいて田中マルクス闘莉王がいて。ケンカ集団みたいな感じだったので、そこで何ができるかなって考えたとき、「笑わせる」ことかなって。一番上が試合に出られないからってふて腐れてたら、このチームはバラバラになるとわかったので、できるのは押さえつけることですよ、ギャグで(笑)。それがたまたまハマって、すごくいい雰囲気になって。

 

2017年7月17日に鈴木啓太の引退試合で久しぶりにみんな集まったんですけど、そのときみんな言ってたんです。「このチームは今でも負ける気しないな」って。「今のレッズと昔のオレたちだったら余裕で勝っちゃうでしょ」みたいな。そんな冗談が出るくらい、違和感がないというか。当時は「日本代表にも余裕で勝つ」と思ってたくらい、それくらい思えるくらいのいいチームになってました。

 

 

鳥取には「観光」で来たと思われていた

レッズの後、香港の天水圍飛馬でもプレーするんですけど、結局同じなんですよ。クラブの大きさを比べちゃうと、もちろん違うんです。けれどやってることは一緒じゃないですか。それが大きいか小さいかの話で。

 

むしろ小さいから町の人の反応もすぐわかるぐらいなので、やりがいもあるし。ボールでみなさんを楽しませるというか、ピッチの上でみなさんを熱くさせるというか、見に来た人に笑顔で帰ってもらう、そういう作業は同じなんです。

 

レッズがビッグクラブで、クラブハウスがドーンとあって、ピリヤード台まで置いてあったのに、大学生のほうがもっといい環境で練習しているというところに行くんです。でも、それが楽しくて。「こんなの小学校のころ普通だったよね」みたいな。そういうことが思えるようになったのは、心のゆとりができたというか、いろんなものを見てきたからで。

 

日本代表で注目を浴びたり、ワールドカップ出たり、レッズで優勝したり、7万人の前で試合をしたりしていたのが、急に300人の前でプレーするわけですよね。それがまた楽しいんですよ。ガイナーレも、最初はアマチュアチームだったんですけど、サッカーやれば一緒ですし、考えも思いも一緒です。

 

だけど僕が最初に鳥取に来たときって、観光できていると思われてたんですよ。ガイナーレの選手じゃなくて。それでこちらの地元のスポンサーさんのCMに出たんですけど、みんなそうやってCMなんかで稼ぐために僕が鳥取に来たと思われてたんです。

 

僕はCMでお金を1円ももらってないんですけどね。その代わりにお菓子とか牛乳とかもらってました(笑)。それに、今の練習場になっている「チュウブYAJINスタジアム」や「養和会YAJINフィールド」は、僕が作ってお金儲けしようと思われてたんですけど、僕には1円も入ってないです。

 

その誤解を解くところでしたからね。そういうところでサッカーやって来て、みなさんが見てくださるようになって、喜んでいただけるようになりました。そして鳥取を勇気づけるのがやりがいにもなったし。

 

鳥取の人に「同じですよ、レッズと変わらないですよ」と言ってやってました。引退して、まさかこんな残ってGMになるとは思ってなかったんですけど。それって、浦和のときと同じ感じだったからですね。

 

 

レッズがJ2に落ちたとき「これは裏切っちゃダメだ」と思った

1999年、レッズがJ2に落ちたときに、僕は他のチームからすごくいいオファーが来てました。他の選手もみんな来てたみたいでしたね。いいメンバーばかりでしたからね。2002年の日韓ワールドカップを控えて、J1でプレーしていないと日本代表に選ばれる確率も低くなるだろうから、やっぱり移籍かなって思ってました。

 

だけど降格が決まった最終戦の後に、サポーターの人たちがスタジアムの表で泣きながら「岡野、来年1年で上げてくれ!」って言ってるのを聞いて、これは裏切っちゃダメだよなって思ったんですよ。「これ裏切ったら一生後悔するだろうな」って。これだけ育ててもらったレッズで、この人たちを裏切って、もしこの人たちがいなくなったらJリーグが終わるなって。だから「これは残って上げるしかねぇ。それが男だ」って思って。

 

それで夜、他の選手たちに電話をかけて「お前ら残らなかったら酷いぞ」って脅したんです。なかには「岡野さんは移籍するって言ってたじゃないですか?」という選手もいましたけど、「オレ、出るの止めた。残って1年で上げるぞ」って。

 

それで僕、すぐ事務所に行って、みんなの年俸を上げてくれってお願いしたんですよ。ウソでもいいから上げてくれって。上げたらみんな残るし、J1に上がったときに年俸抑えればいいじゃないですかって。すると、ホントにJ1に上がったときに抑えられちゃって。そこは守ってほしくなかった(笑)。

 

2013年にガイナーレをJ3に降格させてしまったとき、現役を辞めようと思ってたんです。タレントになる話も来ていました。東京に帰って、タレントさんや芸人さんと番組を作ろうって。ギャラもすごくよかったんですよ。

 

それにもう一つ気持ちの中にあったのは、ここまでずっと勝負の世界でやって来て、「もうそろそろ戦いはいいかな」って。笑いながら仕事をする感じでやりたいなと思ったんです。

 

けれどガイナーレも同じで、いろんな人が手を差し伸べてくれてたんですよ。「来てくれてありがとう」と言ってもらったり、単身赴任だからってご飯を作って差し入れてもらったり。親身になって考えてもらってました。それで、これで帰って裏切るのもダメだなって。

 

だけどGMになるとは思ってなかったですけどね。最初は「GMって何ですか?」って。だから今からもずっと辛いことはあるんですけど、それが楽しいというか。見てみたいんですよ、自分で。「ぎゃふん」と言わせてる自分を。

 

 

 サッカーが強くなれば鳥取をもっと宣伝できる

鳥取には境港があって、マグロの水揚げ量とかが日本一ですし、カニもすごく大きいのが安いんです。あとは岩牡蠣なんかも草鞋みたいに大きい。他の魚もみんなお勧めできます。お刺身のお造りって、東京では高級料理のカンパチなんかの厚くて新鮮なのが数百円。妻がビックリしてました。「こんなに安くていいの?」って。食べ物に関しては幸せですよ。

 

それに実はお肉もおいしくて。神戸牛って、元々、鳥取の大山の牛なんですよ。これまでそういうアピールがなかった。それからこちらでは大山鶏も有名ですし、今、鳥取の食材は東京で引っ張りだこになってきてると思います。

 

ガイナーレからカニを送るというプロジェクトを境港さんでやらせていただいてます。東京の大手町に「鳥取境の かに港」という店があって、そこに送っています。

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それから神戸三ノ宮に期間限定でオープンした「かに小屋」というお店にも送らせていただいていました。両手を一杯に広げたような大きなカニ4枚が缶に入って出てくるんですよ。それで2000円ぐらい。東京だと4枚で1万円ぐらいですよね。

 

こうやって今回のプロジェクトやらせていただいてるのは、本当に食べ物がおいしいからです。これまでは食材をいろいろアレンジしてない、そのままに近い状態で食べていましたが、今後はもっといろんなバリエーションができるでしょうね。

 

鳥取には誰が来ても、食には必ず驚いてもらえますから。おいしいし、値段も安いし。そういう部分では恵まれているんですよ。これであとはサッカー強くならないと。そこに僕の手腕が問われちゃいますね。

 

これでサッカーが強くなればもっといろんな宣伝ができるんです。けれどそこは勝負の世界ですから地道にやるしかない。たくさんの人にガイナーレを気にかけていただいているので、まずもう一回J2にあがって、次はJ1に上がれるようなチームになってお返ししたいですね。そうすると、また食材をいろんなところに紹介できますからね(笑)。

 

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岡野雅行 プロフィール

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1994年、日本大学を中退し浦和レッズへ入団。1995年、日本代表に初選出。1997年にはジョホールバルで行われたイランとのW杯アジア第3代表決定戦で決勝ゴールをあげ時の人となった。
野人と呼ばれる俊足を活かしたプレースタイルで活躍し、2013年に引退。現在はガイナーレ鳥取の代表取締役GMを務める。

1972年生まれ、神奈川県出身

 

 

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。

 

 

 

 

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