『MASTERキートン』の「ナイフは至近距離なら銃より速い」は本当か

前々から書こうと思っていた漫画『MASTERキートン』のナイフ術についての話を書く。
MASTERキートン』の主人公、平賀=キートン・太一は元英軍特殊部隊SAS隊員・考古学者・保健調査員の3つの顔を持つため、作品に様々な知識が登場し、軍隊格闘技、近接戦闘に関する話も出てくる。
中でも「狩人の季節」「獲物の季節」「収穫の季節」の一連のエピソードのナイフに関する話は覚えている人が多いのではないだろうか。

ナイフの有利を説く場面

単行本2巻から該当する部分を引用してみる。画像下にナイフ術に関するセリフも引用した。
なお、私が持っているのは古いコミックなので現在入手できる完全版とは違う部分もあるかもしれない。
この話では同じ説明が3つの場面で登場する。
まずは主人公・平賀=キートン・太一のSAS時代の教官で「プロフェッサー」と呼ばれたジェームズ・ウルフがあるトラブルで売春組織のチンピラと戦った場面。


「やめておけ」
「拳銃の方が、ナイフより速いと思っているんだろう。」
「だが、拳銃はデリケートな道具だ。弾が出ないかもしれないし、思い通り、的に当たるとは限らん。」
「おまけに拳銃は、抜き、構え、引き金を引くまで三動作(スリーアクション)……その点ナイフは一動作(ワンアクション)で終わる。」
「この距離なら、絶対に俺が勝つ!!」
「どうする? それでもやってみるかね?」
(『MASTERキートン』「狩人の季節」より)

次はウルフが売春組織の人間を殺害した事件を追う刑事の説明。


「それから……ホシは危険な男だ、くれぐれも注意してくれ」
「私は三十年前、兵隊としてコンゴにいたが、その時、同僚に本物のナイフ使いがいた……」
「その男は映画のように、ナイフを水平に構えたり、左右に持ちかえたりしなかった……」
「それに最初から、心臓を狙ったりもしない。」
「サーベルグリップで抜いたと同時に、敵の利き腕の腱か大動脈を切断……」
「それから……頸動脈を切るか、臓器を突き、とどめを刺す。」
「この間の動きを見切ることは、素人には無理だ。至近距離では拳銃より速い。」
(『MASTERキートン』「狩人の季節」より)

最後は過去、ジェームズ・ウルフがSAS訓練所の格闘技教官との揉め事から争いになった場面。


「拳銃を抜く気か?」
「ナイフより拳銃のほうが速いと思っているんだろう。」
「やめておけ!」
「この距離なら、ナイフの方が絶対に速い!!」
(『MASTERキートン』「獲物の季節」より)

どの場面でもナイフの有利が強調され、実際に戦う場面ではナイフを使う側が勝っている。

現実の話

この漫画のようなことはありえるかどうか。
銃とナイフ、普通に考えれば銃のほうが有利である。
アメリカでは「Bringing a knife to a gunfight (銃撃戦にナイフを持っていく)」という例えがある。
これは適切な装備や準備なしに対決や困難な場に臨むことを指す比喩として使われている。
映画『アンタッチャブル』(1987年米)の台詞から広まった表現だ*1
こういった表現があるのも、ナイフでは銃には勝てないという共通認識があるからこそである。
しかしある程度近い距離なら必ずしも銃が有利になるとは限らない。
色々な条件が絡むが、条件の話はさておいて実際に試した例を見てみよう。


まずは至近距離で武器を取り出して攻撃するまでの速さの違いから。
イタリアの伝統ナイフ術を伝えるダニーロ・ロッシ・ラヨロ・コッサーノ氏がナイフを抜いて標的を攻撃するまでを銃と並べて比較した動画がある。

ラヨロ氏が使っているのはフォールディングナイフであり、『MASTERキートン』の例と違って刃を収納した状態から出すアクションが入っている。それでも銃よりは速く、複数回の試行の中ではかなり差がついていることもある。


続いて距離を置いて対決した場合、どうなるか。
これについては以前接近戦において拳銃でナイフに対処するには - 火薬と鋼で紹介した動画を再度紹介する。
前提知識として、刃物を持った相手に銃で対処する必要最低限の距離は21フィート(約6m)という説がある。この21フィート説は警察の訓練などで使われてきた。
これが正しいかどうか、ディスカバリー・チャンネルの『怪しい伝説(Mythbusters)』で実験された。
怪しい伝説』2012年放送のエピソードより

距離を置いてもナイフの攻撃はかなり速い。


もちろんこれは射手が棒立ちになっているからこその問題で、射手がナイフに対処すれば話は変わってくる。単純に言えばナイフの攻撃を避けてしまえば銃を撃つ猶予が生まれる。
フィリピン武術の指導者ダグ・マルカイダ氏と射撃技術のインストラクター・ゼロ氏がこれを実際にやってみせている。

この動画は銃対ナイフの技術を見せるシリーズの3番目で、一番目はここ、二番目はここにある。
回避してちゃんと撃つには技術が必要だ。


また、本題とは少し違う話だが「銃弾が相手に当たってもナイフ使いの攻撃が停止するとは限らない」可能性がある。
この問題については警察官と刃物の脅威 - 火薬と鋼で紹介したFBIの論文が詳しい。
以下に該当部分を引用してみる。

法執行機関の訓練のドグマである21フィート(約6m)ルールでは、容疑者が警官を刺す前に2発撃てる21フィートの距離を保つ。
しかしある研究によれば人は2秒で30フィート(約9m)動くことができ、これは警官の発砲で死ぬまでに70ヤード(約64m)移動できることを示している。
FBIによれば心臓が破壊された後も10〜15秒は完全な随意活動をするに十分な酸素が脳にあるという。
このことは、21フィートが刃物に対処するには不十分であることを示している。
射撃と違って刃物による攻撃は10〜15秒で行える原始的で本能的な動作である。
20世紀初頭、アメリ海兵隊員は、胸部に致命傷を受けても前進し、刃物で攻撃し、隊員を殺傷する敵がいることを発見した(訳注:米比戦争の有名な逸話)。
この経験は、ナイフを持った容疑者は致命傷を受けても警官を殺傷することができるというFBIのデータの傍証となる。
警察官と刃物の脅威 - 火薬と鋼

銃を使う側が距離を置いてナイフ使いを撃ったとしても、相手が絶命するまでの間に反撃が来る可能性があるということだ。
さらにニューヨーク市警の命中率から - 火薬と鋼で紹介した統計から明らかなように、至近距離でも銃が当たらない問題もある。
1994年から2000年にかけてニューヨーク市警の警察官が拳銃で発砲した際の距離別命中率は、0〜1.8mの至近距離でも命中率38%である。
プロフェッサーが言ったように「思い通り、的に当たるとは限らん」というリスクは無視できない。

考えられる結果と有利不利

これまでの情報から、「ナイフは至近距離なら銃より速い」はおおむね正しいと思われる。
ただし、実際には様々な要因によりこの有利不利には変動がある。
それぞれの武器の大きさや形状、装備している位置で抜きやすさが変わる。
そして武器を扱う人間の技術の程度や心身のコンディションによっては絶対にナイフが勝つとは限らない。
とは言え腕に自信のあるナイフ使いが全て考慮した上で単純化して「この距離ならナイフのほうが速い」と断言してもおかしくはない。

余談

MASTERキートン』の「狩人の季節」の一連のエピソードでは銃との比較以外にも色々なナイフ術にまつわる知識が登場している。
いずれも該当しない例がある話なので、多少注意が必要である。
ナイフ術には様々な流派、スタイルがあるため、「本物のナイフ使いは〜だ」「ナイフ使いは〜しない」という知識は絶対的なものではない。