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「桶狭間の戦い」について


BS歴史館
 NHKの番組「BS歴史館」第50回「信長27歳 桶狭間に立つ」(2012年9月20日初回放送)に出させていただきました。桶狭間を専門に研究してきたわけではないので、むしろ信長の位置づけについて、といった趣旨で参加したのですが※、合戦自体についても、いろいろと考えさせられました。討論番組の性格上、言い尽くせなかったことも多く、私見を少しまとめておきたいと思います。

否定された通説
 永禄3年(1560)5月19日(グレゴリオ暦だと6月22日)に起こった桶狭間の戦いは、かつては流布していた戦記物、小瀬甫庵の『信長記』などによって、上洛を目指して尾張に侵入した今川義元を、織田信長が奇襲によって倒した戦争、と考えられていました。しかし今日では、より信頼が置ける、信長の側近くに仕えた太田牛一『信長公記』などの史料の見直しによって、こうした見方は否定されています(藤本正行『信長の戦争』講談社学術文庫、など)。
 すなわち、義元は上洛を目的としたわけではなく、信長は奇襲したわけでもない。谷間ではなく、「おけはざま山」という丘の上にいた義元を、雨に紛れてではなく、雨が上がってから襲って勝利した、というのが事実と考えられます。
 では、なぜ信長は勝てたのか?合理的な説明が難しくなってしまい、議論百出ですが、ここでは信長の意図という点から、以下私なりの説明を試みます。

仕掛けたのは信長
 まずはっきりしているのは、この合戦は、信長の挑発が直接の原因だということです。元々尾張領だった鳴海城の山口氏が、信長の父信秀の死後今川に寝返り、以後今川領となっていた。尾張統一を進めてきた信長が、それを取り返しにかかった、というわけで、この時点で見れば、信長が今川領に侵出し、今川方の城(鳴海城と大高城)の間に付け城(鷲津砦、丸根砦)を作って攻撃を仕掛けた、ということになります。ですから、今川義元が反撃に出てくるのは、当然想定内。そこまで見越した上での戦争だったはずで、信長が何も対応を考えていないはずはありません。では、どうするつもりだったのか。

信長の意図は?
 そこで、「どうして勝てたのか」よりも、信長は何をしようとしたのか、を考えてみるべきだと思います。
 思うに、ポイントは二つ。前夜作戦を秘したことと、味方の付け城が攻撃されるのを待って出陣したことです。以下、太田牛一『信長公記』(引用は、奥野高広・岩沢愿彦校注、角川文庫)によって見てみたいと思います。

秘められた計画
 まず前夜の行動ですが、家臣を集めたものの、「色々世間の御雑談迄」で、作戦の話は全くなく、深夜になって解散。「運の末には智慧の鏡も曇る」と家老達は嘆いて帰ったといいます。しかし、これは当然意図的な行動です。まず、深夜まで家臣を集めて引き留めたのは、寝返りや内通を防止するためでしょう。作戦の話をしなかったのは、それが漏れることを恐れたため。敵に漏れるのももちろんですが、この後の行動を見ると、味方に漏れてもいけない、と考えていたに違いありません。

勝算はないが勝機はある
 結論を先に言えば、それはいわゆる「捨て石作戦」だからで、捨てられる方はたまったものではありません。事前に諮れば、当然少なくともその関係者は反発し、成功しない。だから、味方にも秘めておく必要があったと思われます。
 それに、この作戦に勝算はない。四万五千の敵に二千の兵で確実に勝つ方法などあるわけはないですから、どう説明しても賛同は得られない。人に意見されることを極度に嫌う信長としては、ならば話す必要はない、と考えたはずです。「勝算などないが勝機はある」がこの時の信長の思いでしょう。誰にも反対させずに、犠牲もいとわずに、しかし信長にはやってみたいことがあったのです。

捨て石
 では、信長がしようとしたことは何か。そこで次のポイントとなるのは、信長は味方の付け城、鷲津・丸根両砦が今川方から攻撃されるのを確認するまで動こうとしなかった、ということです。前夜から何度も敵の来襲を予測する注進が来ているのですから、助けるつもりならその時に動くはずで、最初から見捨てるつもりだったに違いありません。つまり、出陣後、信長が自ら述べているように、まず今川軍に両砦の攻撃を行なわせ、疲れたところを捕捉してたたく、というのがこの時の作戦です。
 ですから、明け方、ついに今川方が攻撃を始めた、と報告を受けた時の信長の心の声は、「かかった!」だったでしょう。自分の思い通りに戦況が進んだことに興奮しながら、「敦盛」を舞い、法螺貝を吹かせるや、家臣たちを待たずに出陣。生きて帰れるかは分からないが、とにかく自分の思い通りに動いている、という高揚感。駆けながらつぶやいた言葉は、「〔犠牲にした〕(佐久間)大学、(織田)玄蕃!地獄で待ってろ!」といった所でしょう。

選択肢は何があったか
 以上が、『信長公記』からうかがえる、信長のしようとしたことです。いわば、捨て石を使ったカウンター攻撃ですが、考えてみると、この時取り得る行動はこれくらいしかないと思われます。
 まず「籠城」は、元々信長が仕掛けた戦争なのですし、援軍も期待できないから情勢が好転する見込みはなく、あり得ない。常識的なのは、前線に出て付け城の軍勢などと共に戦うことですが、多勢に無勢は明らかですから、それでは勝ち目はない。従って第三の道を考えるしかないわけで、そこで信長が思い立った、というより最初からそのつもりで仕掛けたのがこれだったのです。

稲葉山城下合戦の教訓
 では、このような作戦を思いつき、実行しようとした背景には何があったのでしょうか。
 『信長公記』を読み直してみたら、父信秀が、天文13年(1544)に美濃で大敗した事件が目にとまりました。この時、信秀は宿敵斎藤道三の本拠、稲葉山城の城下まで攻め込むのですが、夕刻になって引き上げようとした時、斎藤勢が「噇(どっ)と」切りかかってきたため、織田勢は支えきれずに、「歴々五千ばかり討死」という大打撃を受けてしまいます。(岐阜市神田町の円徳寺には、今も「織田塚」があります。)
 この戦いが背景となって、信秀は道三と和議を結び、信長は濃姫と結婚することになるわけですから、信長も当然その経緯は熟知していたはずです。そもそも、年少の頃から軍事教練にしか関心がなかったという信長が、この敗戦に強烈な印象を受け、その原因、逆に言えばなぜ道三は圧勝することができたのか、を深く考えたはずです。
(なお、ついでに言うと、敗戦の後は、周囲の様子が大きく変わるはずです。あそこのご主人、こちらの息子さん、みんな一度に死んでしまうのですから、葬式だけでも大変な数です。当時11才の信長も、葬式ばかりの陰々滅々とした毎日だったでしょう。その八年後、父信秀の葬儀の時にお香を投げつけたのは、「俺のしたいのは葬式なんかじゃない!戦だ!」と言いたかったのかもしれません。)

先手を取って後手に回る
 そして、信長の得た答えは、敵軍に大きなダメージを与えるには後手の方がよい、ということだったはずです。先に攻めれば、当初は優位に立てても、こちらの動きが読まれている分、相手も対応してきますから、相応の結果にしかならない。しかし、後手に回った場合、相手の攻撃が緩んだ時、特に相手が後ろを向いた時に想定外の攻撃を行なえば、数で劣っていても壊滅的な打撃を与えることができる、ということです。
 桶狭間について言えば、戦争のきっかけを作り、先手を取ったのは信長です。常に自分が主導権を握らないと気が済まない信長としては、当然の所です。
そして実際の戦闘にあたっては、わざと後手に回って、相手の出方を確かめ、敵軍が「引き上げモード」に入った所で襲いかかる、という作戦だったことになります。
(なお信長は、たとえば朝廷に対しても、官職就任の要請を申し出させて断わる、といった形で優位を確保しています。これも、わざと後手に回って主導権をにぎるやり方です。)

結果としての奏功
 「後手必勝」という発想に関しては、長篠の戦いに関して藤本正行さんも述べていますが、桶狭間の戦いについて言えば、狙ったのはまさにこのパターンでしょう。
あとは、結果論です。信長が実際に戦ったのは、実は労兵ではなかったのですが、相手がその日の予定行動を終え、すでに「後ろ向き」になった時に、想定外の信長が現われた、という点では、作戦が功を奏したと言えるでしょう。結果としては、ねらい通り、引き上げようとした義元の本隊を追撃する形に持ち込むことができ、勝利を得ることになります。

「禁じ手」の副作用
 家臣の意見は一切聞かないまま桶狭間に勝利した信長は、結果として、家臣に対していよいよ強い立場に立ち、独裁の色を濃くしていきます。信長が「信長」になった戦い、と総括できます。
 ただし、一方で家臣との溝は深まります。相手に先に攻めさせるには、当然攻める対象、つまり犠牲が必要になり、桶狭間では信長は意図的にその犠牲を作った。最初から味方を捨て石にする作戦というのは、セオリー無視というより、禁じ手でしょう。勝ったから良いものの、当然「副作用」もあるわけで、佐久間信盛との後年の確執も、ここに一つの遠因があると思われます。

家臣との関係
 桶狭間の戦いで丸根砦を守っていた佐久間大学は戦死してしまいますが、信長にとって、これは必然の結果です。もし前夜の会議に佐久間一族が出席してこの作戦に気づけば、佐久間大学にそれを教えて脱出させるかもしれない。それでは作戦が頓挫してしまう、と信長は考えたでしょう。そう思って見ると、もう一人の佐久間一族の重臣、佐久間信盛は、この時、前線の善照寺砦にいるので、作戦を知る由もないわけです。この配置は、そこまで考えてのものではないでしょうか。 
 家臣に諮らず、犠牲をいとわずに非情な作戦を実行するという信長の路線は、家臣との関係にきしみを産み、時間と共に亀裂は深まる。いわば、毒がまわっていったと思われます。浅井長政に始まる相次ぐ離反は、その症状の表われです。
 浅井長政を小谷城に滅ぼす前、朝倉氏の援軍を追撃しようとして、家臣たちが遅れをとり叱責された際、佐久間信盛は、「さ様に仰せられ候共、我々程の内の者はもたれ間敷(私たちほどのよい家臣は持てませんよ)」と口答えするのですが、この時、信盛の胸中には、桶狭間の戦いで犠牲にされた一族としての、自負や恨みもあったのではないかと思います。

本能寺の変へ
 そして最後には、明智光秀に本能寺で足元をすくわれます。光秀も、自分は信長にとって捨て石にすぎないのではないか、と悩んだのではないでしょうか。
 この時光秀は、側近以外には作戦を秘め、敵にも味方にも悟られぬように行動します。『信長公記』に描かれた信長の生涯には、そのはじめと終わりに、味方をもあざむく二つの決断の物語があることになりますが、この二つは無関係ではない。良くも悪くも、それが信長だった、ということでしょう。

政治的な観点から
 もう少し大きな視点から桶狭間合戦を見ると、まずこの戦争自体について言えば、信長が義元の尾張への侵出を阻止するためには、近隣の勢力と同盟を結ぶか、あるいは義元の背後にいる勢力と結んで牽制してもらうか、どちらかのはずです。しかし隣国美濃の斎藤義龍とは戦争状態ですし、逆に義元の方は、武田・北条と婚姻関係を結んで、駿甲相の三国同盟を作っていますから、まさに後顧の憂いなく尾張へ進軍できる状況でした。政治的には完全に義元の勝ちで、義元の出陣の際のつぶやきは、「信長、お前はすでに負けている」だったでしょう。こういう状況で信長が戦争を始めたことは、結果的に勝ったと言っても、やはり無謀だったと思われます。

「天下統一の戦い」は必要だったか―『永禄六年北国下り遣足帳』に見る戦国時代
 信長は、宣教師のルイス・フロイスに「極度に戦を好み」と評された人物です。戦国時代がなぜ戦国時代になったのかは大きな問題ですが、信長の「天下統一」の戦いについて言えば、決して必然ではなく、信長が意図的に仕掛けていった面が強いものです。当時の日本は、社会的に成熟を深め、経済的にも新興の地方経済を元に「V字回復」を遂げていた時代で、戦争などしなくとも、おのずと社会の統合は進んでいた、ということを、番組でも紹介した、ちょうど桶狭間の戦いころの資料『永禄六年北国下り遣足帳』は物語っています。別のページに、全文と分析および一般向けの解説を載せていますので、そちらもご覧いただければ幸いです。

※番組へのお誘いを受けたのは、拙著『信長とは何か』(講談社選書メチエ、2006年)がディレクターの目にとまったことによります。信長の基本的な問題については、これに書いていますが、すでに絶版ですので、図書館等でご覧下さい。

(2013年5月19日成稿)
(2014年6月12日一部改稿=「稲葉山城下合戦」の年代を、新しい見解に従って、天文13年<1544>に改めました。)



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