史上星の数ほどある消滅したミニ国家たち
ミニ国家は歴史上星の数ほど存在し、またそのだいたいが消滅しました。
現在残っているミニ国家は、バチカン、リヒテンシュタイン、サンマリノ、アンドラ、マルタ、モナコ、シンガポール、バーレーンなどごくわずかです。
今回はあまり知られていない、成り立ちと歴史が面白いミニ国家を集めました。
1. タヴォラーラ王国(1836年〜1962年)
「ヤギのもてなし」 で無人島が独立国家に
タヴォラーラ島はイタリア・サルディニア島の北東部、オルビア湾の沖に浮かぶ島。現在では静かなビーチリゾートとして知られています。
Work by NormanEinstein
タヴォラーラ島はかつて、国際的にも認められた独立王国「タヴォラーラ王国」として知られました。
1807年、ジェノヴァ出身のジュゼッペ・ベルトレノーニとその家族が当時無人島だったタヴォラーラ島に移住し、島の野生のヤギを飼い慣らして生計を立て始めました。実はこのヤギは「海藻と苔を食べるため歯が黄金がかった黄色」の大変な希少種で、その事実は狩猟マニアのサルデーニャ王カルロ・アルベルトの知るところとなりました。
1836年にタヴォラーラ島を訪れたカルロ・アルベルトは、上陸した時にジュゼッペの息子パオロにこう言いました。
「私はサルデーニャ王カルロ・アルベルトである」
それに対し、パオロはこう言いました。
「私はタヴォラーラ王パオロ・ベルトレノーニである」
パオロはカルロ・アルベルトを島に案内してヤギを何頭か潰し、三日三晩盛大にもてなしました。この時の飲み会は超楽しく、また2人は個人的にもウマがあったようで、
「パオロ、お前は本当にタヴォラーラの国王だ!」
と、カルロ・アルベルトは上機嫌で言ったのでした。
その後、カルロ・アルベルトはタヴォラーラ島が正式にサルデーニャ王国の一部でない事実を確認し、パオロにタヴォラーラ君主の認定証を送りました。
このニュースはすぐにヨーロッパ各地に伝わり、イタリア統一の英雄ジュセッペ・ガリバルディはすぐにベルトレノーニ家の顧問になったし、カルロ・アルベルトの息子で後のイタリア王国初代国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、1903年に島の住民33人と平和条約に調印しました。さらにはイギリスのヴィクトリア女王も地中海航海中に島に立ち寄り、ベルトレノーニ家と共に写真撮影をしました。
ところが独立から126年後の1962年、NATOの基地が島にできたことで、王国はイタリアに統合され独立は終了してしまいました。
2. コウトミスト(10世紀〜1864年)
800年近く存在したスペイン・ポルトガル国境沿いのミニ国家
コウトミストは19世紀までスペインとポルトガルの国境沿いに存在した27平方キロメートル程度のミニ国家。
800年近くもスペインにもポルトガルにもどちらにも服属せずに独立を保ち、徴兵や税金を逃れることができ、また外部からの亡命者を受け入れ他国からの引き渡し要求を拒否することもできました。
どうして吹けば飛ぶようなこんなミニ国家が生き長らえたのか不思議ですが、スペインとポルトガルの国境にまたがっていたこともあり、どちらの国も下手に手を出せずにダラダラと800年も経ってしまったようです。
コウトミストの起源は明らかになっていませんが、「コウト」とはラテン語で「領主の権威を免除する特別な土地を記す境界石」という意味の「cautes / cautum」、ミストは「混合」とか「共同」という意味で、ブラガンサ公とモンテレイ伯爵の両方の保証の元に存在するという意味であると考えられています。
伝説では9世紀後半か10世紀前半に、ガリシアの貴族エッロ・フェルナンデスの娘ジョドゥアリア・エリスが身重のままこの地に逃れてきて子を産み、その子は後にポルトガルの大司教、聖ルデシンデとなったと言われています。
これは伝説ですが、そういう言われがあってこの地がある種の「聖域」として維持されつづけたのかもしれません。
なお、コウトミストは1864年にスペインとポルトガルの国境線をグアディアナ川と定めたリスボン条約により、両国に分割吸収されました。
3. ゴゾ国(1798年〜1801年)
Work by F l a n k e r
ミニ国家の中にあったミニ国家
地中海に浮かぶマルタ共和国は、現在でも存在する世界有数のミニ国家の一つです。
マルタ騎士団とマルチーズ犬、ビーチリゾート、最近だと仮想通貨が有名です。
国土はマルタ島、ゴゾ島、コミノ島という3つの島から成りますが、かつてはこのゴゾ島のみが独立していた時期があります。
▽左がゴゾ島、右がマルタ島
Work by NuclearVacuum
マルタ島はロードス島を追われた聖ヨハネ騎士団がシチリア王から借用するという形で1522年から島の運営を行なっていました。
1798年、エジプト遠征中途上のナポレオン軍がマルタに押し寄せ、マルタ騎士団(聖ヨハネ騎士団)はろくすっぽ戦うことなくその軍門に降ってしまいます。
フランス軍はマルタ島のあちこちにある要塞を修復したり新たに構築したりして要塞化を進めるのですが、マルタ島民はフランスの支配に強く反発し「シチリア王フェルディナント3世の支配のもとに戻る」ことを要求し9月3日に蜂起しました。
9月18日、ラバトの町の司祭サヴェリオ・カッサーが反乱軍の首領に選ばれ、カッサーは島中から武器をかき集め、マルタの男たちを説得して回りました。
島中が不穏な空気になってきたことを受け、フランス駐屯軍は10月27日にカッサーと交渉して戦うことなく降伏。ゴゾ島を反乱軍に明け渡しました。さっそくカッサー率いる反乱軍の人々はゴゾ島に行き、シチリアのフェルディナント3世を君主とする「ゴゾ国(La Nazione Gozitana)」の設立を宣言しました。フェルディナント3世はマルタの人々の忠誠心に応え、ナポリ(彼はナポリ王フェルディナント4世でもあるため)から食料品や軍需物資を多数ゴゾ島に輸送しました。
マルタ島のフランス軍守備隊は1800年9月にイギリス軍に降伏し、マルタ島はイギリスの植民地となるのですが、カッサーはゴゾ島を1801年8月まで統治し続けました。
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4. グスト(14世紀〜19世紀)
世界最小の国とされていた寒村
グストはフランスとスペインの国境線沿い、西ピレネー山脈のガーヴ・ド・オッソウ渓谷の南端の端にある1平方キロメートルの非常に小さな村です。
現在でも家は10軒程度しかなく、住民は畜産や羊毛で生計を立てていて、店や教会はないので用があるときは麓のラルーンの町まで行かなくてはいけないそうです。
1659年、三十年戦争の一部であるフランス・スペイン戦争が集結し、ピレネー条約により両国の国境が定められました。それにより「ピレネー山脈の北にある村は全てフランス領」と定められました。そのためグストもフランス領となったはずなのですが、あまりに小さすぎてフランス当局も把握できていなかったようです。
実のところ14世紀からグストはどの支配者もその存在すら把握していなかった無主地帯で、その事実を知った作家のジャン=フランソワ・サマズイユは1827年に「グストは独立共和国である」と皮肉で書き記しました。
19世紀後半にアメリカの新聞がグストを「世界最小の共和国」と紹介したことで広く知られるようになり、バチカン市国が誕生する前までは「世界最小の国」とされていました。
5. インディアン・ストリーム共和国(1832年〜1835年)
Work by Citynoise
曖昧な条約の文言によって成立
インディアン・ストリーム共和国は、アメリカのニューハンプシャー州とカナダのケベック州の国境線沿いのコネチカット川にあった小さな国。
1783年、パリ条約によってイギリスはアメリカの独立を承認し、英領カナダ植民地とアメリカの国境線もこの条約によって定義されました。
セントローレンス川に流れる川を分ける前述の高地に沿って、大西洋に当たるところからコネチカット川の北西端の水源まで
しかし、条約内の文言で書かれた「コネチカット川の北西端の水源」とは、3つある支流のどれか具体的に定義されていなかったため、アメリカは「Halls Stream」以東、イギリスは「Third Lake」以西を領土と考え、両国の税務官がインディアン・ストリームの住民に対し徴税を課す始末。
たまりかねた住民は1832年、アメリカとイギリスのどちらかに帰属が決まるまで独立するとして「インディアン・ストリーム共和国」の成立を宣言しました。
1835年、イギリス人への借金を抱えていたインディアン・ストリーム共和国の国民が、イギリス当局に逮捕されカナダの債務者刑務所にブチ込まれてしまい、激怒した共和国民がカナダに侵入して仲間を取り返すという事件が発生。
一触即発ムードが高まったため、インディアン・ストリーム共和国議会は国をアメリカ・ニューハンプシャー州に併合する決議を採択。直ちにニューハンプシャー州軍がインディアン・ストリーム共和国に出動し占領しました。
これに対しイギリスは1836年1月に領土請求を撤回したため、紛争に陥ることなく無事に共和国は消滅しました。
6. タムラシュ共和国(1878〜1912年)
Work by Chech Explorer; ANGELUS
ムスリムに改宗したブルガリア人が独立
タムラシュ共和国は現在のブルガリア、ロドピ山脈北部の山中にありました。プロヴディフの町から歩いて数キロの所ですが、現在は誰も住んでおらず廃墟を残すのみだそうです。
14世紀にロドピ山脈の付近はオスマン帝国によって征服されます。それに伴いこの付近に住む一部のキリスト教徒が、イスラム教徒のみにある特権を獲得するためイスラム教に改宗します。一方で頑なにキリスト教を守り抜くブルガリア人もいました。
元キリスト教徒のムスリムは自分たちのことを「ポマク人」と呼んで支配民族として振る舞い、キリスト教徒たちを差別しました。
ポマク人とブルガリア人は宗教以外は民族も言語も神話も共通であり、同じ民族なのに差別し差別される共同体が同じロドピ山脈北部に維持され続けました。しかしこれらは違うミッレト(宗教共同体)であったので決して交わることはありませんでした。
時代は下って1876年。
スラヴ人のオスマン帝国に対する抵抗から露土戦争が始まり、ブルガリアでも反オスマンの蜂起の炎が湧きたちました。ロドピ山脈北部でもキリスト教徒が蜂起しますが、ポマク人たちは自分たちの特権を維持することを選択し、オスマン帝国側に味方しました。しかし露土戦争はロシアの勝利に終わり、サン・ステファノ条約とベルリン条約によりブルガリア公国が誕生しようとしていました。
ポマク人のリーダー、アフメド・アガは1879年、オスマン帝国領東ルメリへの税金払いを拒否し、当局の入国を禁止しました。プロヴディフの知事はこれらの動きを無視し放置したため、ポマク人たちは自らの土地を「タムラシュ共和国」と呼び独自の統治を始めました。
1885年、ブルガリア系住民が多い東ルメリとブルガリア公国との政治的統合がなされ、翌年、タマラシュ共和国はオスマン帝国に従属することになりますが、まだ独立状態は維持していました。
ところが1912年に第一次バルカン戦争が勃発すると、ブルガリア公国はタマラシュ共和国のブルガリアへの統合を目指して真っ先に軍隊を進めてきました。たまらずポマク人たちは逃げ出し、最終的にはアナトリア半島に亡命しました。
キリスト教徒ブルガリア人は「トルコ人」の家を略奪し、長年の恨みを晴らしたそうです。
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まとめ
狡猾に独立を目指した国、気がついたら独立していた国、併合されるために独立した国、ノリで独立した国など様々です。
動乱期ならいざ知らず、現在のように国境線が極めて安定している時代に新たな国を作るのは極めて難しいはずですが、世界中では毎年のように新たなマイクロネーション(自称国家)が誕生していってるので、「新国家を作る」というロマンやワクワク感はいつの時代も変わらないのだなとも思います。
参考サイト
"GOUST, LA REPÚBLICA DELS TEUS SOMNIS" jordipuiggros.com
"The world's most smallest kingdom" BBC Travel