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【下克上】奴隷が反乱を起こして打ち立てた「奴隷国家」

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現役の奴隷の蜂起によって成立した「奴隷の天下の国」

世界史の授業の中で「奴隷王朝」という名の王朝を知って興味をかきたてられた人は多いと思います。

マムルーク朝なんかもそうですが、イスラム圏では奴隷身分出身の軍人が力を蓄えて王朝をひっくり返して支配層に君臨することがあります。あくまで奴隷出身ということであって、現役の奴隷というわけではありません。

では、現役の奴隷が蜂起して自分たちの国を作ってしまったことはあったのでしょうか。

 

 1. エウヌスの奴隷王国 (BC139?年〜BC132年)

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Photo by Eannatum

シチリア島にできた奴隷によるオリエント的王国

この奴隷反乱は古代ローマで発生した最初の大規模な奴隷反乱で、紀元前139年または135年に起こったと考えられています。

当時ローマの穀倉であったシチリア島には、ローマの侵略戦争の結果アフリカやオリエントから大量の奴隷が流れ込み、大地主が持つ農場で酷使されていました。

ある時、着るものもままならない奴隷たちが、エンナの領主ダモフィロスに衣類を支給するよう懇願しました。するとダモフィロスは、奴隷ごときが生意気なと怒り狂って彼らを棒叩きにし追い出してしまった。

このまま引き下がれない奴隷たちは、超能力があるとされ奴隷たちの間で信頼が厚いエウヌスという男に事態の打開を求めました。

エウヌスは400名の奴隷を引き連れてダモフィロスに面会を求め、劇場にて討議が行われました。ところが感情が高ぶった2人の奴隷がダモフィロスを殺してしまった。

後に引けなくなった奴隷たちはその場でエウヌスを王に祭り上げ、奴隷王国の設立を宣言したのでした。

エウヌスは3日で6,000もの奴隷を糾合して反乱を拡大させ、各地の奴隷も参加してその合計は20万にもなったと言われています。奴隷軍はエンナの他モルガンティーナやタオルミーナなどの町を奪取。農場主や奴隷保有者は捕らえられて逆に奴隷の立場に落とされ、武器工場で働かされました。

エウスヌはセレウコス朝の歴代の王に倣って、自らアンティオコスと名乗って王宮組織や近衛軍を組織し、銅貨を鋳造したり議会を開いたりなどオリエント的君主制国家の建設を進めました。

シラクーサのローマ長官は拡大する反乱に対してシチリアのローマ軍団を組織し応戦するも対応できず、反乱発生から数年後の紀元前132年にようやく本土から執政官ルピリウスの軍2万が到着して、奴隷軍は各個撃破されました。

エウヌスは捕らえられ、獄中で死亡しました。

 

2. サルヴィオスの奴隷王国(BC104年〜BC100年)

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自由民になれなかった奴隷たちが王国を建国

エウヌスの反乱鎮圧から28年後、再びシチリアで奴隷たちが反乱を起こしました。

当時、ローマ北方ではゲルマン民族による侵入が深刻化していたため、将軍マリウスの呼びかけでローマ各地の奴隷を解放し優秀な人材を登用することが決定しました。シチリアでもシラクーサの役所に申し出た奴隷は自由の身になれたのですが、その数があまりにも多く、ビジネスが成り立たなくなると危機感を抱いた奴隷雇用者の圧力によってシチリアの自由民申請は打ち切られてしまいました。

自由民申請に間に合わず、絶望した奴隷たちはシチリア西部で蜂起し、サルヴィオスという名のギリシャ人奴隷をリーダーにして山岳地帯に篭って独自の王国を築き始めました。

サルヴィオスはトリュフォンと名乗って王として君臨し、王国の都は宮殿や城壁、広場などが作られ山岳小王国の様相を呈していました。

反乱軍の数は3万〜4万程度でしたが精強で、ローマ正規軍からよく城を守りましたが蜂起から4年後に城が陥落し、奴隷たちはローマに送られて円形闘技場で戦わされたり、猛獣ショーの餌に使われたりしたそうです。

 

3. デニアのタイーファ国(1010年〜1076年)

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Work by Té y kriptonita

後ウマイヤ朝のスラヴ系奴隷が蜂起し建国 

イベリア半島に成立した後ウマイヤ朝は、名宰相アル・マンスール・ビッ・ラーヒの時代に黄金期を迎え、都のコルドバは当時のイスラム世界の最先端都市として名を馳せました。

ところが、マンスールが死亡すると有力な後継者が現れずに宮廷では争いが頻発し、とうとうスルタンは部下によって幽閉され王朝自体が廃絶されてしまいます。その後のイベリア半島は後ウマイヤ朝時代の地方の有力諸侯(タイーファ)が群雄割拠する「戦国時代」に突入していくのですが、デニアもそんなタイーファ諸国の一つ。

デニアを建国したのはアブー・ダヤーシュ・ムジャヒード・アブド・アラー・アル=アミーリー、通称アル=ムワファックという人物で、マンスールに仕えた元キリスト教徒のスラヴ系奴隷でした。

後ウマイヤ朝廃絶後の1009年、ムジャヒードと彼の部下のスラヴ系奴隷はクーデターを起こして自らを奴隷身分から解放し、デニアの行政区を乗っ取り、アル=ムアイティという傀儡のカリフを建てて独自の王朝を築きました。

デニアは強力な海軍力を有し、1015年にはバレアレス諸島を占領。さらにはサルデーニャ島に侵攻しピサとジェノヴァの海軍と戦いました。

その後タイーファ諸国同士の戦いの中で、デニアは1076年にサラゴサのタイーファに屈して滅びましたが、バレアレス諸島はその後も1116年まで独自の政権を維持し続けました。

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4. ベンコス・ビオホの王国(1605年〜1621年)

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Photo by Muntuwandi~commonswiki

コロンビアに逃亡奴隷王国を作った黒人王族 

15世紀〜19世紀、主に西アフリカや中央アフリカ出身の黒人が、奴隷貿易で南北アメリカに連れてこられ過酷な奴隷労働を強いられました。

しかし、奴隷の中には農場から集団で逃げ出してジャングルの奥地や山岳地帯に独自に自分たちの国を作り、アフリカの宗教や文化を維持しながら白人支配に抵抗した事例も数多くあります。それら逃亡黒人奴隷の集団をマルーン(Maroon)と言います。

南米コロンビアのマルーンで最も有名な人物がベンコス・ビオホ。

彼は元々ギニア・ビサウの黒人王国の皇太子だったのですが、ポルトガルの奴隷貿易業者によってコロンビアに売られ、フアン・ゴメスというスペイン人の奴隷となりました。

フアン・ゴメスの奴隷に対する扱いは過酷で、ある時ベンコス・ビオホは妻と他の奴隷3人と彼らの妻の計8人を引き連れて農場から脱走。その後近隣の奴隷の22人を加えて50マイル逃げ、トルー村という村の近辺に落ち着き、そこで逃亡奴隷を受け入れながら勢力を拡大。ベンコス・ビオホは黒人たちの王となって君臨し、精強な軍に守られた城壁に囲まれた町を建設しました。

ベンコスの軍はゲリラ的にスペイン人植民者へのゲリラ攻撃を繰り返し、スペイン人も反撃を試みるとその勢力があまりにも強力だったため、1605年にカタルヘナ知事はとうとう現在のサン・バシリオ・デル・パレンケの地をベンコス・ビオホに与えるほどでした。

しかし1621年、カタルヘナの新たな知事は黒人奴隷の「不法占拠」を許さず、スペイン兵を組織しベンコスの王国に侵攻。ベンコス・ビオホは3月6日に捕らえられ、死刑となりました。

 

5. キロンボ・ドス・パルマーレス(1679年〜1695年)

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Photo by Elza Fiúza/ABr

ブラジルにあった最大のキロンボ(逃亡奴隷集落)

ブラジルにはジャングルや山岳地帯に逃げた黒人奴隷が集団で暮らすキロンボ(逃亡奴隷集落)が数多くありました。ポルトガル人が黒人奴隷を使ってサトウキビ栽培を始めた1530年代から既にその原型はあったようです。

キロンボの中で最大級だったものが、現在の東北ブラジルのセハ・ダ・バヒガにあったキロンボ・ドス・パルマーレス。

農園から逃亡した黒人奴隷の逃げ込み先で、最盛期には1万人以上の人口を有しました。黒人奴隷だけでなく、原住民や貧困層の白人、メスティソ、クリオーロなども住んでいたようです。

キロンボは黒人の王によって統治され、行政を遂行する役人もいて、裁判所もあったし常備軍もいた組織化された国だったようです。

1660年~70代にキロンボの王となったのはガンガ・ズンバという男で、元はサトウキビ農園で育ち司祭にポルトガル語の読み書きを教わったものの、15歳でキロンボに戻り王となりました。統率力があり優れた王だったのですが、1676年のフェルナン・カッリョによる攻撃によりキロンボは壊滅的な被害を受けました。

和平協定でガンバ・ズンバはキロンボで生まれた以外の黒人を農園に帰すように求める協定にサインせざるを得なくなりました。

しかしガンガ・ズンバの甥ズンビはこの条項に強硬に反対。叔父に対するクーデターを起こして1680年に王位に就きました。

ズンビは協定の履行を拒否したため、ポルトガルはズンビの軍に再度攻撃を開始。対するズンビも反撃を見せ、激しい戦いが続きました。

1694年にとうとうキロンボは陥落。ズンビはポルトガル軍によって捕まり、斬首されました。

 

6. ナニー・タウン(1720年〜1734年)

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 グラニー・ナニーに率いられた黒人奴隷が建設した町

 イギリスの植民地・ジャマイカでも逃亡黒人奴隷マルーンが独自に勢力を持っていました。

ジャマイカで最大のマルーン王国は、グラニー・ナニーという女性が建設したナニー・タウン。ジャマイカ西部ブルーマウンテン山脈の北東部の尾根の上にあり、麓をストーニー川が走るという、攻めにくく守りやすい町でした。

元々グラニー・ナニーはガーナ・アシャンティ族の出身で、兄弟たちと共に奴隷業者に売られてジャマイカにやってきました。そこでの過酷な労働に耐えかね、仲間たちと逃亡してマルーンコミュニティに参加。その後1690年のジャマイカのマルーン大反乱にてグラニー・ナニーは指導者として頭角を現し、人々を率いるようになっていきました。

1720年にマルーンたちを引き連れてナニー・タウンを建設。アシャンティ族の伝統的な統治方法を導入し、ナニー・タウンでは焼き畑によって植物を育て、それを麓で売って武器を購入するやり方で急速に軍備を整えていきました。

1728年から1734年にはイギリス軍はナニー・タウンを攻めましたが、攻め落とすことはできませんでした。

グラニー・ナニーは以降50年間ナニー・タウンを率い、その生涯で800人以上の黒人奴隷を解放したと言われています。

グラニー・ナニーはジャマイカ人の民族的誇りで、現在の500ジャマイカ・ドルには彼女の肖像画が印刷されています。

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7.ハイチ共和国(1801年〜現在)

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奴隷が建国した初の南米の独立国

ハイチはもともとサン=ドマングと呼ばれ、フランス植民地の中で最も裕福な地域でした。特にサトウキビ栽培が盛んで、白人の土地所有者の下で、圧倒的多数の黒人奴隷が強制労働を強いられていました。

1789年、本国フランスで革命が勃発すると、サン=ドマングの白人たちはフランスからの独立を画策するようになります。一方でサン=ドマングのカラードは革命に乗じて人種差別撤廃と平等を訴え蜂起。反乱が全土に拡大していきました。

1791年、黒人奴隷が突如蜂起し、全土で白人の土地所有者や金持ちを襲撃し虐殺。混乱が広がる中で、黒人奴隷を組織化したのが家事奴隷出身のトゥサン・ルベルチュール。

トゥサン・ルベルチュールの軍はサン=ドマングの島を掌握し、隣のサンドミンゴ島までも支配してしまいます。ナポレオンは義弟のシャルル・ルクレール率いる遠征隊を送り鎮圧を試みます。トゥサン・ルベルチュールは捕らわれて牢獄で死亡。一時黒人奴隷反乱は鎮圧されてしまいます。

しかしトゥサン・ルベルチュール軍の有力者で、これまた奴隷出身の将軍ジャン=ジャック・デサリーヌが1802年に再蜂起。ヴェルティエールの戦いでフランス軍を打ち破り、ジャン=ジャック・デサリーヌは1804年にハイチの独立を宣言し、自らジャック1世と名乗り皇帝に就任しました。

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 まとめ

他にもマルーンが作った王国をはじめ、奴隷王国は数多くあったのですが、まとめきれなかったのでいったんリストアップ終わります。

混乱の中から暴力を使って国を起こし、安定した国を築いていくのは並大抵の努力ではないと思います。それに素材は適切な教育を受けていない奴隷たちです。

被支配者への暴力的圧力への抵抗からスタートしているので、外に敵がないと国の統治の大義名分が失われてしまいそうだし、だいたい皆殺気立ってる連中なので言うこと聞いてくれなそうだし、ちゃんと食わせていくのも難しそうです。

ベンコス・ビオホやグラニー・ナニーのようなカリスマ的な指導者がいないと統治は難しかったんじゃないでしょうか。

 

参考文献・参考サイト

「シチリア歴史紀行」小森谷慶子 白水社

 "The Taifa of Denia and the Medieval Mediterranean" Travis Bruce Western Michigan University

"Benkos Bioho and the Cimarrones" Colombian Culture, Colombia Adoption and Raising Colombian Kids

"Quilombo dos Palmares" Info Escola

"Queen Nanny of the Maroons (? - 1733)" Black Past.org

"Haitian Revolution (1791-1804)" Black Past org

Quilombo - Wikipedia