- light_snow
- 164379
- 687
- 588
- 1877
発端の疑問
現代の地図を見ても、赤石山脈を避けて北上するのはともかく、塩尻から軽井沢経由で群馬に出て南下するより、八ヶ岳を南にまわりこんで甲府から八王子に出た方がいいのでは……と思ってしまう。
2020-09-20 20:10:09仮説と応答
アニメ/コミカライズ/小説スーパーカブ関係の商業案件は 個人としてはお受けしかねますので お手数ですが以下の連絡先にご相談をお願いします https://t.co/PfEylgnEkO
@honobu_yonezawa 魚を腐敗させず内陸まで運べる限界「魚尻線」が関係しているのかもしれません。 甲州街道が太平洋の魚尻線にあったから内陸ながら魚の消費が多く、中山道は日本海の海鮮流通路と魚尻線をカバーするために…群馬北部のあたりでやや辻褄が合わなくなりますが…
2020-09-20 20:23:33@tone_koken ありがとうございます。南信に飛騨経由で富山の魚が入っていた(もちろん塩漬けで)というのは聞いたことがありますが、中山道が海産物の物流に使われていたというイメージはいま教えて頂くまで持っていなかったので、いろいろ考えてみます。
2020-09-20 21:17:18@honobu_yonezawa 軽井沢や群馬に集落としての価値があった、と考えるべきですかね?現代と違って長距離を移動する人は少ないでしょうし
2020-09-20 20:36:45@DEF72938930 ありがとうございます。高崎は当時も栄えていた町だと思うので、江戸から高崎へのルートが栄えるのは頷けますね。
2020-09-20 21:20:00@honobu_yonezawa 甲州街道が江戸幕府が直轄領である甲州との連絡道として整備された新しい道だったので宿場町などのインフラが貧弱だったのに対し、律令制の東山道の時代から交易路として栄えていた中山道の方が宿場町も発展していたという背景はあるようです。参勤交代に使う大名も甲州街道より多かったとか。
2020-09-20 20:22:59@hiratti_classic ありがとうございます。大名行列は新しい道よりも古くて詳細のわかっている道の方を通りたがった、ということはありそうなことですね。
2020-09-20 21:08:10@honobu_yonezawa 五街道を自身の足で踏破したことのある友人に 「甲州街道が整備されても中山道が廃れなかった理由」 の見解を聞いたところ、大きく分けて2つ理由があるようです。まずは「他の街道とのアクセス」。
2020-09-20 21:10:55@honobu_yonezawa 発端のこのツイートへの回答にもなるのですが、京方面から中山道で関東に入ると経由する高崎からは北国街道で日本海側へ行ける他、日光例弊使街道を経由して奥州にも向かえるなど展開性が甲州街道に比べても高いというメリットがあるそうです。 twitter.com/honobu_yonezaw…
2020-09-20 21:25:27@honobu_yonezawa あともうひとつは、これは友人の体感でもあるのですが、 「諏訪湖から江戸を目指すなら中山道の方がやや楽」 だそうです。距離も10kmと違わなく、峠道も碓氷峠vs笹子峠で標高はほぼ変わらないものの、碓氷峠は越えると軽井沢宿がすぐ近くにあるので安心感が違ったそうです。
2020-09-20 21:34:05