ウラル山脈を越えてわずか60年でオホーツク海に達したロシア
ロシアは御存知の通り世界最大の領土をを持つ国ですが、その大半は広大なシベリアの大地です。シベリアとは具体的には、ウラル山脈以東のことを言います。
こんなところ本当に人が住んでるのかと思うような、森林や荒野、永久凍土。人間が住むには厳しい土地が続きます。しかしこんな大地をロシア人は先住民を征服しながら、わずか60年という短い期間で征服してしまいました。
派手ではありませんし、その過程は現代の価値観からすると褒められたもんじゃありませんが、この広大な土地をわずかな期間で征服したのは、歴史上の「偉業」と言えなくはないでしょうか。今回はロシアのシベリア征服の歴史です。
PR
1. シビリ・ハン国の征服
13世紀のバトゥの西進以降、ルーシ諸国を支配下においたジョチ・ウルス(キプチャク・ハン)は15世紀半ばに分裂し、ヴォルガ中流域のカザン・ハン、ヴォルガ河口域のアストラハン・ハン、クリミア半島のクリム・ハンに分裂しました。
弱体化したモンゴル勢力に対し、モスクワ・ロシアのイヴァン四世は攻勢を強め、1547年にカザン・ハンの都カザンを征服。1554年には アストラハン・ハン国に傀儡政権を打ち立てました。クリム・ハンは強力なオスマン帝国の庇護下にあったため手出しができず、イヴァン四世はウラル山脈以東に目を向けました。
1555年、イヴァン四世の元にウラル山脈以東に領土を持つシビリ・ハン国の首長エディゲルの使者が訪れ、貢物を献納することを申し出ました。エディゲルのタイブガ家と、チュメニ・ハン国の首長シャイバーン家は長年対立関係にあり、エディゲルは長年従属していたカザン・ハン国を征服したロシアへ庇護を求めたのでした。
ちなみに、このシビリ・ハン国が「シベリア」の語源となっています。
1563年、チュメニ・ハン国のクチュムはシビリ・ハン国の都シベリを占領し、その後シビリ・ハン国のロシアの臣属関係を破棄しました。こうしたクチュムの行動はイヴァン四世に攻撃の口実を与えました。ロシアの毛皮商ストロガノフ家は、イヴァン四世の許可を得た上で、チュメニ・ハンに侵入し操業を行いました。さらにストロガノフ家とその配下の兵はクチュムの兵に対する攻撃が義務付けられさえしました。
本格的なシビリ・ハン国への攻撃は、コサックのエルマーク・チモフェーヴィチによって実行されました。このエルマークという男はもともとゴロツキ団の頭領でしたが、ストロガノフ家の所領に流れてきて傭兵となり、シビリ・ハン国への遠征を主導することになりました。1582年エルマークはシビリ・ハン国への攻撃を開始。クチュムと息子のマメト・クルは敗走し、シビリ・ハン国はロシアによって占領されました。
その後、エルマークは何者かによって殺害され、一時クチュムの子アレイがシビリ・ハンを回復するも、エディゲルの甥であるセイジャークが再占領。しかしセイジャークもトボリスク軍政官チュルコフによって捕えられてモスクワに送られ、とうとうシビリの町は廃墟となり、シビリ・ハン国は崩壊しました。
クチュムも勢力が衰退し、頑強にロシアに抵抗を続けるも、どこかで戦死したか、野垂れ死んだとも言われています。
2. 毛皮を求めて
イヴァン四世は何人かの軍政官をモスクワから旧チュメニ・ハンへ送り込み、1586年に派遣されたヴァシリ・スーキンとイヴァン・ミャースヌィーによって砦が築かれチュメニの町が形成されました。同年、旧カザン・ハンの東方のバシュキール人がロシアに服属し、その土地にウファの町が建設されました。1587年には旧シビリ・ハンにトボリスクの町が建設され、ウラル以東のロシア占領が進行していきました。
「シベリア」の中心都市となったトボリスクでは毛皮の交易が盛んになりました。もともと12世紀のノヴゴロド国の頃からルーシ国家はこの地方で毛皮の貢納を原住民に課していましたが、旧シビリ・ハン領土でオビ川下流域のユグラ地方を支配すると、さらに良質な毛皮を求めて東方にどんどん進出していきます。シベリアはクロテン、ギンギツネ、アカギツネ、オコジョなど良質な毛皮獣の宝庫で、ロシア人は原住民を服属させて毛皮を砦に集めさせました。特に毛皮は厳寒期に良質になるので、越冬のための施設を作るのは極めて重要なことでした。
アジア東端への到達
1593年にオビ川上流のスルグート、1594年にはイルティシュ川下流域のタラ、1600年にタズ河畔のマンガゼヤ、1604年にトミ河畔のトムスクに砦が築かれました。
シベリアは泥や沼だらけの地帯が多く馬での移動に適さなかったため、ロシア人は河川を利用して東方へ進んでいきます。
マンガゼヤからタズ川を遡行してトゥルーハン川に出てエニセイ川に到達し、さらにアンガラ川とケミ川の合流地点に1619年にエニセイスクの砦を建設します。そこから東はエベンキ族の抵抗が根強くさらなる東進はできず、ロシア人は北東に進みます。
1630年、イヴァーン・ガールキンはエニセイスクからアンガラ川を遡行して支流のイリム川の合流地点にイリムスクの砦を築き、イリム川からクタ川に出て、クタ川とレナ川の合流地点にウスチ・クトの砦を築きました。1632年にはヤクート族を制圧しながらレナ川中流域にヤクーツクの砦を築きました。このヤクーツクには軍政部が設置され、東部シベリアの統治の拠点となります。
1639年、イヴァーン・モスクヴィーチンはレナ川支流のアルダン川からマヤ川、その支流のユドマ川を遡行し、山越えをしてウリヤ川に出て、そこを下ってとうとうオホーツク海にたどり着きました。翌年にはウダ川河口からアムール河河口まで航行しました。
こうしてロシア人はエルマークがウラル山脈を越えてわずか60年あまりでアジアの東端にまで到達したのでした。
原住民の抵抗
シベリアの原住民にとって、ロシア人は招かれざる客でした。いきなりやってきて武力を背景に毛皮の貢納を要求する。素直に従うわけありません。
エニセイ川上流ではエベンキ族の抵抗にあい東進が防がれ、アンガラ川上流域ではブリャート族の抵抗にあい、南下が防がれました。ブリャート族の抵抗はことさら激しく、イヴァン・ボハーボフは1652年にようやく制圧しアンガラ河最下流のイルクート川との合流地点にイルクーツクの越冬所を設けました。
ヤクーツク付近のヤクート族の抵抗は長く続き、1632年の砦の建設以降も何度も大反乱が起き、最終的に制圧されるのは18世紀初頭のことになります。
ロシア人は1696年にカムチャツカ半島に進出しますが、1720年代には原住民カムチャダールの抵抗が活発になり、ロシア人の砦が襲撃され焼かれました。鎮圧されたのは1737年のことです。
この他にも、1648年にデジュニョーフが周航したチュクチ半島のチュクチ人も激しく抵抗し、あまりの激しさに一時期ロシア人はチュクチ半島から撤退せざるを得ないほどでした。完全に制圧される19世紀初頭まで抵抗運動が続きました。
PR
3.中国に拒否され続けるロシア
早い時期からロシア人はシベリアの向こうに中国があることを認識しており、1615年6月にロマノフ朝初代ミハイル・ロマノフの命令によりヴァシリー・チュメーネツとイヴァン・ペトリーフ・テクティエフがトボリスクにまで到達し、中国はすぐ近くにあると皇帝に報告しました。
1618年ロシア政府はトボリスクの軍政官クラーキンに命じ、中国の皇帝に勅書を届ける使節を派遣することを決定しました。イヴァン・ペートリンを代表とする使節は4ヶ月書けて北京にたどり着きますが、この時使節は「朝貢のための貢物」を持ってこなかったとして万暦帝への謁見を拒否され、わずか4日の滞在で帰国しました。
次に使節が派遣されたのは1653年。
使節フョードル・バイコーフはアレクセイ帝の勅書を携えて1656年3月に北京に到着。この時バイコーフは皇帝謁見に必要な跪拝叩頭の儀礼を拒んだため謁見を許されず、9月に北京を追放されました。1658年と1675年にはそれぞれ通商を求める使者が派遣されますが、やはり関係を築くことはできませんでした。
アムール川をめぐる中国との戦い
1632年にヤクーツク砦を築いたロシア人はさらなる毛皮の地を求めて、アムール川下流域の領有を目論みます。1643年、ヴァシリー・ポヤールコフはレナ川から伊東へ進み、スタノヴォイ山脈を越えてブリャンダ川に出て、それを下ってゼヤ川に到達し、さらに下ってアムール川に達しました。ポヤールコフはアムール川流域のダフール族やトゥングース族を武力で制圧し、アムール河口に達してオホーツク海を北上してウリヤ川経由でヤクーツクに帰還しました。このキャンペーンの成功を受けて、エロフェーイ・ハバロフがアムール川流域の支配確立を目指して軍勢を進め、1651年にアルバジン砦、次いでアムール川下流域のアチャン砦を築きますが、翌年清軍の攻撃を受けました。
この時アチャン砦は持ちこたえますが、次に統治を託されたオヌーフリー・ステパーノフの時に再び清軍の攻撃があり、1658年の戦いで戦死しました。
清軍はさらに翌年アルバジン砦を破壊してアムール川下流域を占領し、原住民のナナイ族とニヴフ族を入貢させて支配下に組み込みました。
こうしてアムール川流域は清の影響下に組み入れられ、ロシアの進出は初めて挫折することになります。
4. ネルチンスク条約と中国貿易の開始
アルバジン砦を占領されたロシアは、清国との話し合いによる国境線の問題を求め、1689年にフョードル・ゴロヴィーンを全権大使に任命して使節団を派遣。ネルチンスクで会議が行われ、これによりアルバジン含むアムール川流域は清国、ネルチンスクを含むシルカ川流域はロシア領と定められ、国境はネルチンスクとアルバジンの中間にあるゴルビツァ川と定められました。
↑上記の「赤線」がネルチンスク条約で定められた国境線
ロシアが妥協した代わりに、清国は通商貿易を許可することになりました。
供給超過の貿易
貿易許諾を得たロシアはさっそく隊商を次々と北京に送り込みます。商品はもちろん、シベリア産の毛皮。ロシア人は、ヨーロッパで毛皮が飛ぶように売れる以上に、人口の多い中国ではもっともっと毛皮が売れるだろうと踏んでいました。
しかし、中国で毛皮が必要な地域は非常に限られ、また購入できる人も一部の特権階級のみで、ヨーロッパのように毛皮が貴族のステータスではなく、中国人はさほど欲しがりませんでした。
もともとシベリア原住民からも安価な毛皮がもたされていたこともあり、次第にロシアの毛皮が供給過多になっていきます。清国は次第にロシアの隊商を締め出すようになり、ロシアは再三市場開放と通商関係改善を求めますが、清国からすると無い袖は振れない。
1725年にロシアはサヴァ・ラグージンスキーを全権大使とする使節を派遣し通商関係改善を求めますが、清国は国境線の確定を優先し、1727年8月に国境を確定したブーラ条約が、10月にこれに貿易に関する条項を盛り込んだ条約が調印され、翌年6月にキャフタで批准書が交換され、これによって清国によるモンゴリアとウリャンハイ地方の領有が確認され、ロシアはさらに中国に遠ざけられることになりました。
しかしロシア人はアムール川流域の領有を諦めておらず、後の1858年にアヘン戦争の混乱に乗じて艦船から威嚇発砲し、アイグン条約を締結させてアムール川下流域までの領土を獲得。ウラジオストクを建設し、念願のアジア極東における不凍港を入手するのです。
PR
まとめ
アムール川から締め出されたロシアは、その後新たな毛皮を求めてカムチャツカ半島、千島列島、そしてアラスカにまで達します。
このロシア人の征服業は、人類史の観点からもなかなかの偉業だと思うのですが、当時のロシア人からしても開拓者や毛皮ハンターの残虐さや強欲さは目に余るものがあり、原住民への残虐な仕打ちはかなり問題になっていたようです。
ただし「未確定の国土」を征服していくことはロシア人は反対はしないし、今でもロシア人は征服した土地への愛着と執着は強いものがあります。
北方領土もそうですしクリミア半島もそうですが、このようなロシア人の征服の歴史を見ていくと、「正当性」などはロシア人にとって何の拘束力もない屁のようなもんなのだろうなと思います。
参考サイト
岩波講座 世界歴史13 東アジア・東南アジア伝統社会の形成 "北方世界とロシアの進出" 菊池俊彦 1998年8月7日第一刷発行