秀吉は、家康を信頼?警戒?~歴史クラスタを賑わせ続ける「豊臣ー徳川禅譲論」を語ろう
ここ数年、歴史クラスタの間で繰り返し議論されている「秀吉は家康を信頼したのか、警戒したのか?」、「秀吉の死後、家康が天下を掌握したのは”禅譲”だったのでは?(関ケ原はそれへの”反乱”)」という話を、まとめで把握できるようにしたいと思いました。最近のセンゴク@sengoku_YM でも、微妙に… pic.twitter.com/QpnBY4pRod
2020-10-16 03:53:26【ご注意】
ここ数年にわたる議論を抽出しています。
「秀吉 家康 禅譲」「秀吉 家康 信頼」「秀吉 家康 警戒」などの単語で検索し、そのツリーを抜き出しています
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数年前の議論
帝堯から舜への禅譲を徳として物凄い勢いで褒めている辺り、秀吉から家康…というより秀頼を除いた家康と秀忠を「正しい」としたい気持ちがあったんだろうなー。と思うのでした。
2012-11-26 22:29:48「秀吉研究の最前線」読んでいて興味深かったのは、平野明夫先生の「秀吉は家康を警戒していたのか」にある、朝鮮出兵の本営・名護屋陣で、秀吉は家康の陣を、その出入口二ヶ所に配置している、という所ですね。家康がもし裏切ったら正に袋のネズミにされてしまうわけで、ある種絶対的な信頼を感じます
2015-08-26 19:09:34それにしても、昨今の研究で言われるように、豊臣秀吉は徳川家康を心から信頼していた、というのが正しいとすれば、その家康にタテ付き政権から排除しようとした三成は、それこそ秀吉の遺志を曲げる者に見えたのではないかなあ。
2015-09-06 22:38:02多分秀吉にとって一番信頼できかつ行政能力を発揮できるのは家康だったわけで、そう考えると多分前田を上位に置くって発想は秀吉にはなかったんじゃないかと思うんだよな。I先生、反徳川臭が強すぎ、というかIFを弄しすぎw #英雄たちの選択 #NHKBSp
2015-10-15 21:01:31秀吉の家康に対する信頼については、秀吉存命中から(在京中の)家康の周囲にいる人達が秀吉の御伽衆とかぶっている点や、秀吉死後に家康に近づいたとされる面々が既に秀吉存命中から家康と接触していることからも推測できると思うのだが。
2016-04-29 21:39:332017年の議論
司馬遼太郎『関ケ原』系のイメージだと、秀吉は家康を警戒していて死後も自分の死後も過大な権限を封じ込めようとしてたのを家康が破壊したみたいに言われてるが、実際には秀吉生前はかなり信頼・優遇されていて、秀吉の死の直後もほぼ暫定政権の突出したトップをまかされていた方が妥当そう
2017-06-22 20:37:33秀吉による家康の江戸への移封も、危険視して冷遇で飛ばしたのでなくて、基本的には旧北条領及び東国の安定を任されて、江戸も北条の関東ほぼ統一ですでに重要な港町として発展していて、東北方面とつなぐ戦略上の要地として任されたという、基本的に信頼しての措置のよう
2017-06-22 20:40:50東海道の大名配置は、(潜在的仮想的国としての)対徳川防衛ラインの構築である。その最終拠点・兵站基地の清洲城を死守すれば徳川軍はそれ以上西に行けない。その最重要拠点を最も信頼できる従兄弟福島正則に秀吉は任せた。秀吉は、まさか正則が秀吉の意図を無視して家康につくとは思いもしなかった。
2017-09-08 04:38:47潜在的仮想的国×→潜在的仮想敵国〇 念のため。秀吉は家康を敵視していた、秀吉は家康を信頼していた、どちらも正しく、一方だけならどちらも間違い。戦国大名の基本外交方針は「和戦両様」。同盟大名であっても「信頼しつつ、万が一敵対した時のために警戒をし、その備えは怠らない」が基本です。
2017-09-08 04:53:41徳川家康のやっていることは典型的な「下剋上」で「放伐」ではない。中国では「禅譲」という正統な「下剋上」の儀式があるが、日本においては豊臣・徳川共に天皇の臣なので「禅譲」はそのまま利用できない。秀吉は、官位・家格において主家を凌ぐという綺麗な「下剋上」を演出したが、家康は及ばない。
2017-09-15 03:07:39日本の統治者の地位について、秀吉から家康に禅譲っぽいコトが行われたという仮説、義弟であるとか相互縁組があるということを援用するものの、史上前例も無いし首を傾げてたが。日本と、それに寄生する広大な私領を持つ羽柴宗家を分けて考えると、何か水路が繋がった様な気がする。
2017-09-16 10:44:58秀吉は、「日本」の統治の方には興味を失ってたんじゃ無いかな。軍人として日本を占領してただけであって。太閤という無官の私人が最高権力者というのが豊臣政権の最終形態で、その路線を受け継げる人材は秀頼も含めて誰も居ないし、認める人も居なかったとか。
2017-09-16 10:59:37安定して「日本」を統治して羽柴宗家を養ってくれるなら血縁とかはどうでもよく、むしろ首のすげ替えに使われる可能性があったから秀次家は族滅されたんじゃないか。将軍として「日本」を統治する徳川の基本構想が秀吉のサジェッションという説を何処かで見たが、当たらずとも遠からずかもしれん。
2017-09-16 11:14:02こういう秀吉の意識を引き継いだのが秀頼母子であるなら、私領の徴税内政に徳川の手を借りても問題は感じないだろうし、徳川にだけチョット頭下げてれば済むだけなら且元程度の交渉力でも十分といったところかな。
2017-09-16 11:24:09領地宛行権とか、官位執奏権が徳川に移っても大して騒がないのに、大坂城を手放す事を要求されたら戦争になったということから考えても、羽柴宗家にとって「日本」の統治者の権利義務に関わる前者は後者に比べてどうでもいいことだったんじゃないかな。
2017-09-16 11:53:06豊臣-徳川のソフトランディングは、日本が無為徒食の大飯食らいの存続を容認できない限り、誰が関わっても不可能という気がしますねー。牢人というアウトロー以外からの支持が殆ど無かったという史実も頷くことができますね。
2017-09-16 12:09:40関ヶ原後早々に家康が伏見に移ったのも、対外戦争と未終息の内戦を抱えながら「日本」を再編成しなきゃならんのに羽柴宗家の私事の象徴である大坂に関わっている余裕は無いというところか。限られたリソースの集中選択の問題だろう。
2017-09-16 12:32:37