すずめの戸締まり - レビュー

厄災を鎮める旅路は日常風景を永遠に不穏なものへ変える

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本稿は映画『すずめの戸締まり』のネタバレなしレビューです。


「きれいな場所だな」映画の半ばを過ぎたあたりで、『すずめの戸締まり』の登場人物の1人が車を降りてそう言う。晴れた空の下に原っぱが広がる風景。新海誠監督の作品で何度も見た“美しい”風景の典型だ。だが主人公の岩戸鈴芽は違った。「ここが?」彼女はそういぶかしく言葉を返す。

数十秒くらいの何気ないシーンだ。だけど僕はまるで新海誠監督が過去の自分のスタイルを否定するような印象を受けた。序盤から中盤までに新海監督的な風景は“美しい”だけではなく不安な影が付きまとうものとして描かれ、鈴芽の言葉はそれを決定的にする。

『すずめの戸締まり』は、『君の名は。』(2016年)から始まった大きな作風変化の完結編といっていい一作である。表向きは大地震を起こす厄災を鎮める冒険活劇だが、過去すべての新海作品の解釈も変えてしまう力を持つ。まるで『彼女と彼女の猫』(1999年)から『天気の子』(2019年)に至るまで、新海監督が自ら描いてきた風景に対して自ら違う解釈をしているかのようだ。

そうした背景として、本作のモチーフに2011年の東日本大震災を据えているのが大きい(全国合計300万名の観客限定で「新海誠本」が配布されており、本作の題材や企画書を含んだ監督のインタビューにて明言している)。それ自体は『君の名は。』でも選ばれたものだが、今回は描き方が違う。鈴芽の冒険には2016年の熊本地震から過去の阪神淡路大震災、そして関東大震災も含めた近代を総ざらいする意図もあるのだろう。

しかし僕が気になったのは別のことだ。3.11後の物語性や震災の歴史、そして天災を鎮める世界観として神道を引っ張ってくる意図についてはこれから他メディアでの評論やレビューで嫌になるほど言及されるだろう。そこに自分の関心はあまりない。

映画で注目したのは、監督が日本を鎮める冒険を描くことで、かつて偏執的なほど描いてきた“美しい日常の風景”の意味をまったく変えてしまったことだ。壮大な冒険譚は同時に壮大な過去の監督作品を自己否定してゆく過程でもある。

過去作と段違いのリズムで進む、厄災を鎮める冒険

ある日鈴芽は、子供の頃に母親を亡くした夢を見ていた。星空の下に広がる草原の上で、小さな鈴芽はたった1人で泣き続けている。草原の向こうから長い髪の誰かが自分に近づいてくるのが見える。そこで鈴芽は目を覚ます。

鈴芽はいつものように、一緒に暮らす叔母の岩戸環の朝ご飯を食べて、お弁当を持って登校する。ところがすれ違いざまに、夢で見た誰かによく似た長髪の青年・宗像草太に出会う。「このあたりに廃墟はありませんか?」草太は鈴芽にそう尋ねる。彼は日本各地で厄災をもたらす扉を締める“閉じ師”と呼ばれる人間だった。道端でのふたりのささいな出会いが、過去から現在に至る厄災を鎮める旅の始まりとなった。

僕が本作で最初に興味深いと感じたのはシンプルなことだ。過去になく展開が速く、スムーズに鈴芽と草太が旅を進めるテンポの良さだ。物語の目的が「日本各地の扉を締め、厄災を鎮める」と前2作よりはっきりしていることも良いリズムに繋がっていると言える。鈴芽と草太の出会いからタイトルバックまでの流麗な展開は鮮やかすぎるほどである。

こうした速さはまさしく冒険活劇にふさわしいものだ。その速さや鮮やかさはシナリオだけじゃなくアニメートや映像表現にも見られる。謎の猫・ダイジンの奇妙な動きのほか、椅子に変えられた草太のアニメートは楽しげでもあるし、カット割りまでリズミカルに進む。瞬間的にはTRIGGERの作るアニメのリズムみたいとさえ感じるシーンもあった。

日本各地で厄災の扉を閉める旅もそうだ。まるで90年代のRPGみたいなリズムですらある。鈴芽と草太が厄災に立ち向かうシーンは、RADWIMPSと陣内一真による音楽も相まってボスバトルみたいだ。『聖剣伝説2』(1993年)や『聖剣伝説3』(1995年)における菊田裕樹のOSTにも近い雰囲気があり、つい新海監督がキャリアの初期に日本ファルコムにて『イースII エターナル』(2000年)のムービーに関わっていたことを思い出した。

厄災を鎮める冒険の裏側で、ささやかな日常の美しさが終わる

なにより驚くのは、これまでの新海監督らしいスタイルがほぼ無くなったことである。美しい日常や自然風景のワンカットを長く映しながら、登場人物たちのモノローグが流れる、ゆったりとした映像の時間だ。『秒速5センチメートル』(2007年)で完成されたあのスタイルが観られないのだ。『天気の子』ではまだわずかに残っていたのに対し、『すずめの戸締まり』では消えつつある。

過去の新海監督スタイルが消え、リズミカルに日本を縦断する冒険を描くスタイルになったことで過去作とまったく印象が変わったように思う。もはや『すずめの戸締まり』では“暮らしている街の日常風景が、なによりも美しい。ささやかで時に切ないこともある日々が美しい”という小さな自意識の美しさみたいなものが、ほとんど消えつつある。

『すずめの戸締まり』にまったく街の美しい日常風景や自然風景がないわけじゃない。だが本作において、それらの風景は常に崩壊する不安を付きまとわせている。

ふとした瞬間にスマートフォンへ一斉に地震警報が鳴り響く。扉が開き、厄災が空を覆う姿に人々は気づかないまま通勤電車や飲食店でささやかな日常を過ごす。厄災で崩壊した地域の扉を鈴芽が締めようとすると、かつて人々が穏やかに暮らしていた幻影を観る。

鈴芽と草太の鮮やかな冒険の裏で、過去作なら“永遠に続くかも知れないささやかな日々の美しさ”として描写された数々は、いつ終わってもおかしくない不穏さのなかにある。僕はそういう風に風景を描くように変わったことに衝撃を受けた。

人工的な美しさとしての“ささやかな日々”の終わり

そう考えながら配布された「新海誠本」の監督インタビューを読んでいると、少しぎょっとする記述がある。

「3月11日の10日後くらいだったか、東京でも桜が咲いたんですよね。当然と言えば当然ですが、心底驚いた記憶があります。(中略)何があっても日々はこうやって続いていくんだという慰めと同時に、自然はどこまでも冷徹で人間には無関心なんだ、という底知れない怖さも感じました」

僕はこの発言から、逆に「監督は自然の風景も人間側の状況や心境といった都合で調整できる感覚なのか?」とひっかかった。人工的な日常を過ごしすぎることによって不確定な自然が理解しにくくなるのだ……みたいな話はさんざん語られてきたものであるが、どうも自然すら人工的な感覚で捉えているのだろうかと考えていた。

ただ、それはこれまでの作品からうっすらとはわかっていたことでもある。新海監督が描いてきた“ささやかな日々”の風景は徹底して人工的なものだった。現実の風景をロケハンしているが、その風景をデジタル制作によって徹底して鮮やかに作る。それはInstagramのフィルター機能や、写真のデジタル現像の過程で色調の調整機能を使った人の手による極端な加工の美に近い。その加工された美しさは、現実の風景を題材にし、日常のどこかにあるように見えながら、実際にはまったく存在しないものだ。  

そんな新海監督ならではの人工的な“ささやかな日々が永遠に続く”の美が、震災のような圧倒的な現実を題材とすることで今回、もはや成り立たないと映像で否定しているのがすごいと思った。シナリオ自体はシンプルで感動的なシナリオのラインなのだが、鑑賞後に「よくよく考えてみれば、本当に大団円なのか」と、ざわざわさせられる感覚が追いかけてくるのだ。“行きて帰りし物語”は神話からブロックバスターの大作映画まで採用される物語の原型だが、『すずめの戸締まり』で帰ってきた日常はもはや“ささやかな日々”とは違う場所ではないのか。

いずれにせよ、『すずめの戸締まり』は新海監督による冒険活劇の完成形であると同時に不穏な日常を残す。表向きは震災などの背景をあまり考えなくても楽しめる鈴芽と草太の冒険だが、一方で「ささやかな美しい日々は存在しない、あれは結局人の手による妄想だった」と突きつけるようでもあり、残酷でもある。

総評

新海監督作品の中でもっとも生き生きとした冒険譚で、ある意味でもっとも残酷。これまで何気ない日常風景がなにより美しいというアニメを作ってきた新海監督だが、本作ではもはやそんな日常がずっと続くものじゃないということを壮大な冒険活劇の裏で描いている。いつか日常が崩壊する可能性は身近な感覚であり、もはやささいな日々がいつまでも続く美しさを愛でる時代が終わったんだと考え込ませる一作。

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すずめの戸締まり

2022年11月11日

『すずめの戸締まり』レビュー 「ささやかな日々が続く美しさ」を愛でる時代はもはや終わったのだ、と考え込ませる一作

9
Amazing
新海監督作品の中でもっとも生き生きとした冒険譚で、ある意味でもっとも残酷。日常が崩壊する可能性は身近な感覚であり、もはやささいな日々がいつまでも続く美しさを愛でる時代は終わったんだ、と考え込ませる一作だ。
すずめの戸締まり
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